大西成明写真集『象の耳』
2009 年 05 月 16 日
先日、今年の林忠彦賞を受賞した大西成明さんから『象の耳』(ニッコールクラブ:非売品)という写真集が送られてきた。 対象は動物園の動物である。 僕も子供のお供で動物園にたまに行くが、撮影したいと思うことはあまりない。 野生動物にみられる「いのちの輝き」が見られないからである(時にドキッとするような瞬間もないことはないが・・・・) むしろ悲しげな表情にこちらまで悲しくなってしまうのだ。 ところが大西さんが写し取った動物たちからは違った印象が伝わってきた。 大西さんが撮るのはアップの写真。 背景は黒くつぶれている(フィルターで周囲の光量を落とし、そのフィルターの中央をくり抜くことで中心を際立たせている)。 そして粘りに粘って劇的な光があたった瞬間を切り取っている。
そこから立ち上がってきたのは不思議な世界だった。 正直見入ってしまった。 こんな世界があったのか・・・・。 あとがきには、当時の編集長から江戸時代の画家・伊藤若冲(鮮やか過ぎる色彩、そして精巧・詳細な描写で、とにかくはっとするような絵であるが、描いている動物の目に狂気を感じて好きにはなれなかった)の世界のような写真を撮ったら、とアドバイスを受けたそうだ。 たしかにいくつかの写真は、目には野生の持つ狂気のようなものが宿っていて、若冲様でもある。 しかし僕には、檻の中で飼いなされたことによって失われたものではなく、失われていないものが写し込まれているように思われた。 それは野性が持つ多様性であり、狂気であり、進化の成果であった。 これらの要素を野生のなかで撮ることは、被写体に近づきにくいがゆえに難しい。 動物園、アップが容易にできるから可能になったのだ。 これらを表現するには、背景などむしろないほうがよいのだ。 なんという逆転の発想。 先入観でみていた僕には、たいくつで輝きを失っているとしか思えなかった動物たちも、大西さんの手にかかると雄弁な語り手に変身させられる。 動物園では聞こえてこなかった声がこの写真集を見ているうちに聞こえ始めた。 なんという力量なのだろうか。 どれほど思いを込めて撮影をしたのだろうか。 その感性に煌めきを、そして思いに狂喜的なものを感じた。
大西さんの写真を見て気づかされたことは、「動物園の動物=悲しい姿」という先入観で撮っていないことだ。 ところが、最近の映像で見る野生の世界(自分の作品も含めて)は、どこかで見聞きしたようなストリーを映像にしましたというものばかりで、まったく新鮮味に欠け、おもしろくもなんともない。 とにかくありきたりなのだ。 飽き飽きしていた僕の目をくぎ付けにした写真集であった。
先入観を捨てて、目を凝らせ! 見て、観て、とにかく見続けろ! 僕の中で、何かが叫び始めた。
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