Breeze in Savanna

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日記

私の日々の生活や、思ったことなどを書きためて行こうと思います。
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60回目のアフリカ取材 2017/05/13
10日夜にタンザニアの取材旅行から帰ってきた。
今回ほど素晴らしい旅はなかった。
60回の旅で最高であった。
シーンは凄かった。
念願のライオンのシマウマハンティングの素晴らしい写真が撮れた。
ライオンの母親が子供をくわえて歩くシーンもアップで撮れた。
チーターの親子(子どもは2〜3週間)もアップで撮れたし、ヒョウの親子も見た。
風景的写真でもよいのが多く、素晴らしい虹や雲バックの写真も多かった。
ゾウもよい写真が撮れたし、朝焼けのフラミンゴも神々しいのが撮れた。

しかし、それ以上に良かったのは、同行した写真家・デザイナー・音楽家の瀬尾拓慶君の撮影に接することができたことだ。

60回を契機に自分の弱点を克服するというのが今回の大きなテーマだった。
新しいスタートだと思っていた。

自分の弱点はたくさんある。
撮影技術(ふだん日本で撮っていないのであきらかに練習不足)
カメラの機能の理解不足(今まで興味がなかったし、勉強不足だった)。
超望遠で撮ることが多いので、視野が狭くなっているし、構図がパターン化されている。
画像処理に対する勉強不足。
などなど・・・・。
それでも勝負できていたのは、光に対する感受性が人より優れ、多くの素晴らしシーンに巡り合えてきたからにすぎない。
それは執念とよみの結果だと思っている。

瀬尾君は写真家になって1年。
だが基礎がまるで違う。
両親ともに美大出のサラブレット。
美大で空間デザインを学び(構図に生きている)、フォトショップを自在に操り、光に対する感受性は天性のものがあり、繊細な光を写し取るだけの才能と技術を持っていたし、そのための努力を惜しまなかった。
最初から「こいつはただ者ではない」と思っていたが、2週間撮影を共にして、彼の構図の斬新さとカメラの機能を最大限に使いこなしている技術の確かさに、自分に足りないものをみな持っていることに気づいた。

とてもよい刺激になり、僕の心に火が付いた。
瀬尾君と僕では描こうとしているものが違うので、彼と同じものは求めていないが、自分の中で足りなかった部分を補うにはどうしたらよいかの答えがほとんど見えてきた。
どれもが努力によって早晩克服できるはず。
写真が一段と面白くなってきた。
あと数年で井上の写真が変わってくるでしょう。

明日出発 2017/04/24
本日キャノンで600mmの新しいレンズ(旧バージョンを20年以上使っている)とプロ用のカメラ1DXマーク2(これも旧バージョンしか持っていない)を借りに行った。
今回の取材で試すためだ。
これからパッキングに入る。

明日、午前の外来を終え、夜の便でタンザニアに向かう。
ンゴロンゴロクレーター2泊、ンヅツウ地域5泊、セレンゲティ国立公園5泊の予定だ。
帰国は5月10日の予定です。

クリニックの改修工事 2017/04/21
クリニック移転から2年がすぎ、ところどころがたついたり、ヒビが入っているところが散見されるようになってきた。
そこで5月のゴールデンウィークを利用して改修工事に入ることにした。
工事は5月2日(火)から7日(日)まで。
そのため5月2日(火)と6日(土)は臨時休診になります。
5月1日は通常通り診療しております。
お間違いのないように。

60回目のアフリカ取材準備 2017/04/15
今年は年初から写真集出版、写真展、息子の受験・入学、母の再入院→転院とあわただしい日々が続いていた。
写真展の後片付けも終わり、母の病状も大分安定し、これでようやくアフリカ取材の準備に入ることができそうだ。

今回は写真展を手伝ってくれた瀬尾拓慶君と一緒に行く。
彼にとっては初めてのサバンナ。
かなり楽しみにしているようだ。
今回の旅では、彼のたっての希望で僕の車に同乗させることにした。
撮影者を基本的に乗せない(撮影に支障をきたすため)僕としては、写真展を全力で手伝ってくれた彼へのお礼の気持ちもある。
彼の感性と僕の経験は、きっとお互いにとってプラスになるであろう。

30年間の集大成が終わって新たな旅のはじまり。
本当の集大成に向かって、これまでに欠けていた部分を見つけ、埋めていく作業が始まりつつある。

なぜ両親が医師になったのか 2017/03/26
戦争はもっとも愚かな行為だと思う。
しかし、その戦争があったがゆえに今の僕が存在していることが分かってきた。

京都ホテルの御曹司だった父と地方都市の決して豊かではない印刷工の次女だった母。
出会うはずのない2人が出会った不思議。
そのいきさつは今まで聞いたことがなかった。
母の病床に通い続ける日々は、これらのことを聴ける良い機会になった。

軍国少女だった母は「お国のために何か貢献したい」と思っていた。
戦時中、男性の医者は戦地に派遣され、国内では医師が不足していたために女医を目指すことにした。
「女子医大(当時は医専)は定員を増やして多少は入りやすくなっていた」と本人は言っているが、相当努力したようだ。
親族に医者はおらず、そのような社会状況でなければ医師を目指すことはなかったであろう。
はじめは仕送りを受けていたが、戦後は家業が傾き、進駐軍の寮母のバイトをしながら、奨学金を得ながら卒業した。

父は京都ホテル創業者の3代目として帝王学を学びながら育った。
しかし、戦争で祖父は京都ホテルを手放すことになった。
商業高校に通っていた父は途方にくれ、急きょ医師をめざすことになったようだ。
父方にも医師の親族はいない。
それまで受験勉強をしていなかったのでたいへんだったようだ。
何年も浪人してようやく医学部に入った。

このように戦争に翻弄されて、医師を目指すことになった二人。
大学は違ったが、ある研究会で出会い、結婚した。
そして今の自分がいる。

少年時代、内気で人と話すのが苦手だった僕は医師になれるとは思っていなかった。
母の強い押しがなければ、絶対に医師にならなかったであろう。
父は自然が大好きで、高齢になっても昆虫採集を続けていた。
父がいなければ自然に魅せられるようにはならなかったかもしれない。
その二人の遺伝子を持つ自分が、医師と自然写真家という2つの視点で生命を表現するようになったのは必然だったのかもしれない。

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